私は「先生」という言葉が嫌いだ。本質的な意味で先生と呼べる人はもちろんいるが、教壇に立つだけで「先生、先生」とはやし立てる日本人の慣習には疑問を感じる。教育機関の教師を先生と呼ぶことはいまでもキツイ。
細かい事例を上げたらキリがないが、「えこひいき」から始まり、モラル崩壊教師にはほとほとあきれてきた。将来の夢や勉強の方法、学校内での活動、課外活動など、積極的に働きかけてきたティーンエイジャーだったが、ことごとく教師の閉鎖的封建的抑圧に打ちのめされて、結局グレた。まじめそうな不良、結局のところ落ちこぼれだが、それで上等という感じだった。
教育委員会で朝から雑魚寝している人が役員だったという衝撃
決定的なのは10年ほど前、栃木県教育委員会でインターネット関連の講演をするために訪れたときのこと。応接コーナーにいくと、眼鏡をかけた人がソファーに雑魚寝しながら新聞を大きく広げて読んでいた。
まだ、20代だった私だから舐められたのか、それとも、業務時間外とか休み時間だったのかよくわからないが、スーツを着た私を前に、ろくに挨拶もせず、しばらく新聞を読みふけっていたことがあまりにも衝撃的だった。すぐ横で、かなり忙しそうにしている職員が大勢いたので、さらに強烈に見えたのかもしれない。
しばらく待たされて役員室のあるフロアに連れていかれると、そこは先ほどとはまったく異なる雰囲気。ほとんどの職員が雑談している(まあ、それは日中の市役所とかわらないわけだが)。しかし、彼らは職員を呼び出して、陰湿な言葉で叱りつけたりしている。
当時、激務をこなしていた自分にとって、めまいがするほどの衝撃だった。実力かどうかではない、コネとか馴れ合いが重視される、一般の社会とは待ったく異なる、モラル無き権力依存空間がこうまで平然と存在していることに憂慮した。
そして、今年7月、栃木県教育委員会で職員が国の交付金600万円横領。あの雰囲気じゃ、起こってしかるべきだ。
東京都台東区の区立中学校教諭・鈴木明の猥褻旅行なんて「教育的権力は使ってない」といいつつ、親に嘘の修学旅行日程を通知したりしていて、あきれるばかり。おかしいことに気がついてすらいないのだろう。
全国的に教師の猥褻事件が多発しているが、教育の現場の常識のなさ、教師のモラルのなさがやっと露呈したんじゃないかと感じる。大分の賄賂事件は、全国でもよく口にされる話で、いつ浮上してもおかしくないことだと思う。いっそのこと、すべて解体してしまった方がいいような気がする。
ただし、誤解をしないで欲しい。今、私が学んだ同じ轍を子供が踏んでいる。先生方とはいろいろな意味で対話が成立し、心から「先生」と呼べている。すべてが悪いのではなく、構造に固執し、一般との対話を拒絶するキーマン群が悪いわけである。(教育委員という組織の問題は知る人も多いだろう。それはそれとして)
「信用」という言葉、大辞泉にはこう書いてある。
1 確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を?する」
よく公的機関の中の人は「透明性を重視し、信用されるべく」とかなんとかいうが、まずは対話がなくしては受け入れるかどうか判断はつかないのはいうまでもない。辞書の次の項目には「成績などで信頼する」という説明もあるが、情報時代の補助的な話に過ぎない。まずは隠れてこそこそやらないでいただきたい。



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