海外の人と日本人マジョリティの違いを気にするようになって20年くらいになるんですが、特に強烈にヤバク感じるポイントが3つあります。
- 道を譲らないで体当たりしてくる
- 住宅街で人が殺される
- 自分に相づちを打つ
特に「じゃないですか?」と自分に相づちを打つのがさらにヤバさを増しているように思えるのは僕だけでしょうか。
1.道を譲らないで体当たりしてくる…海外生活をした経験の無い人はもちろん、ほとんどの人にはわからないと思いますが、たとえば繁華街の狭い通路。大抵はお互いの距離がかなりある段階で目線をあさえ譲り合いますが、日本人だけは目も合わせなければ、近くに来てもよけずあたってきます。だからよく、現地の友人と、日本人センサーとかいって遊んでました。「あの人、韓国人かな日本人かな」という時、すれちがうまで待って、体当たりしてきたら日本人、みたいな。
狭い国内では普通かもしれないですね。だから生活環境によるのかと思いますが、サンフランシスコなどオリエンタルが多い町であっても、他のアジア圏の人はそうではありませんでした。日本の海外在住者といえば大半が、企業の出張組ですから、文化を理解しないままなのかもしれません。
2.住宅街で人が殺される…こちらも海外から日本をみた時に感じたのですが、スラムとか、新宿の度真ん中でギャングが打ち合いをして誰かが殺害されるならともかく、閑静な住宅街で人がころされます。自殺の多さも異常ですね(これは宗教観に関連しているという持論を持っています)。北米に在住している時、スラムは本当に毎日殺人事件が発生していましたが、日本は全国の住宅街で発生しています。日本と現地のニュースを毎日(ネットで)みていて、その差異を強く感じました。
そして、ここ10年くらい強烈に感じているのが
3.自分に相づちを打つ
です。
まず、テレビで誰かのインタビューをみてみてください。
全員、自分の発言にコクンコクンとうなづいています。そして、かなりの確率で、「じゃないですか」と自分に相づちを打ちます。海外の人のインタビューを比較すると、その違いにビビるんじゃないかと思いますよ。
私の場合、最近、うなずくジェスチャーは(場をなごませるのに)必要性を感じることもあり時々使用しますが、個人的に自己相づちがそうとう気持ちわるく思っています。相手に伝える(接点を持つ)ためにコミュニケーションしているのに、自分に対して相づちを打つなんて変だと思います。
そもそも、相づちって辞書を引くとこうあります(大辞泉より)
鍛冶(かじ)で、二人の職人が交互に槌を打ち合わすこと。あいのつち。
相手の話にうなずいて巧みに調子を合わせること。
というわけで二人がいないと成立しないのですが、「自分相づち」の人は、これを(気がついてないと思いますが)悪用し、自分の言うこと既成事実化し、その上で強引に同意させる道具として利用します。トゲトゲしくてごめんなさい、けど、こう書くとどれくらい乱暴な言葉か理解いただけるのかなーって思う次第でして。
例えば、先日もアップルファンのあるUstreamで
デジタルフォトフレームって、iPhoneと比較してまだまだ普及してないじゃないですか
って、いやいやいやiPhoneより売れてますから!
こういうのはジャーナリズム的問題にも発展する可能性もありますね。ろくに調べもしないで、思い込みだけで発言してしまう。
最悪な使用例は
昨日言ったじゃないですか
極めて低レベルで、そんなことを言う人とは仕事をしたくないですが。言ったもん勝ちで、もはやパワハラ的圧力がありますねー。
例が悪い。じゃあ、
大学って高校より楽じゃないですか
とか。
不況だから仕事しても意味ないじゃないですか
例が悪い。
俺のせいなんだから、路上生活するの当然じゃないですか
さらに発言小町の爆笑使用例
「私の部屋って2階にあるじゃないですか?」
知るか!!! ww
かの、ピタゴラスイッチ 佐藤雅彦氏も自著の中で「じゃないですか禁止令」とかなり憤慨されていますが、なんと1994年頃からその現象に気づいていたそうです。
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(増田(maskin)真樹)





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